迷うのは弱いからじゃない!

【6月6日のお話】
迷ってしまうのは何かを産み出そうとしてるとき。

今日は4月下旬に亡くなった祖母の49日法要でした。
お寺で法要を終え、お墓へ納骨。
1時間くらいしかかからなかったかなぁ。

実家の父が来るし、葬儀とはスケールが違うし。
欠席でもいいかなぁって一瞬思ったんですが、生前入院中の祖母から、
『退院したらお墓参りに一緒に行こう。お墓が新しくなったんだ』
と言われたのを思い出しました。

コロナの影響で一緒にお墓参りに行くことは叶いませんでしたが、
『お墓見に来たよ。一緒に来れなくてごめんね』
と伝えることは出来ました。

納骨~親族のお線香までの間、和尚さんがお経を読んでくださるのですが、そのお経が般若心経でした。
般若心経は法話を聞く会や坐禅会で何度か読経させていただいたことがあったのです。

そのなかでも
『ぎゃーてい ぎゃーてい はーらーぎゃーてい はらそーぎゃーてい ぼーじーそうか』
という部分の響きが好きでいるのですが、私がお線香をあげてるとき、ちょうどその部分が読み上げられてビックリ!
何かの運命を勝手に感じてました(笑)

意味は『往き往き、彼岸に往けるもの、その者こそ悟りである。幸あれかし。』
らしいです。ちょっと難しいなぁ←

法要も無事終了し、これでひと段落です。
ここ最近お別れが続いているので、しばらく無いといいのだけど。。。


相変わらず迷いの中にいる私です。

何故迷うのか。
自信が無くなってきたから?
今までやってきたことが無駄かもしれないと思ってきたから?
この先続けていいのかわからなくなったから?

今まで作り上げてきた自信は幻だったのか。
いや、世間知らずな自分が都合のいいように作り上げてきたもので、実際は何も役に立たないものだったのかもしれない。
自信どころか、甘えの一つだったのかもしれない。

その甘えを自信と勘違いして、勝手に胸張って、勝手に堂々としてて、勝手に天狗になって。
そんな天狗の鼻っ先なんて折られて当然だ。
何が自信だ、何が想いだ。私には無理なのかもしれない。

自信が無いから迷うんだ。甘えがあるから迷うんだ。
そう思いました。

でもよく考えて。
日本のトップレベルのスポーツ選手でも、海外で歯が立たないことはざらです。
それは彼らが自信を勘違いしていたわけでも、甘えていたわけでもない。

比較の対象が天と地以上に離れていてアレですけど(苦笑)
レベルは人それぞれ。だからいいんです。

これまでたくさんの壁を乗り越えてきた。
乗り越えてきた分、次はさらに高い壁が聳え立った。
その次もさらに・・・そしてその次もさらに・・・。

自信が打ち砕かれそうになる時、迷いが生じる時は次の壁にぶち当たったときです。
そしてその壁をどう乗り越えればいいかを迷ってるとき。

つまりその迷いは『産みの苦しみ』なんです。
あなたが弱いからとか、甘えてるからとか、ダメだからなんてわけじゃ全然ない。
むしろちゃんと進めてるからこそ壁に出くわす。
迷ってしまうほどの大きな壁に出くわせるんです。

迷ってるときは本当に苦しい。
考えれば考えるほど自信は無くなるし、考えれば考えるほどわからなくなる。

そんな時は
原点回帰してから視野を広げてみる
そうすると、今の迷いは可能性の塊であることに気づけます。

そう。やり方は、壁の越え方はいくらでもある。
だから下ばかり向いてないで、顔をあげて見まわしましょう!

迷いが産みの苦しみであると認識することにより、私はまたいくつかの可能性を手に出来ました。
気持ちが楽になって、また【次】が見えるようになりました。
スッキリ♪

まだ挑戦できる!まだやれることはたくさんある!

紙に書き出す、瞑想や坐禅を行う、一人で考える時間をじっくり作る。
環境を変えてみる、軽い運動をする、人に相談してみる。

迷うのは本当に苦しいけど、でも思う存分とことん迷いましょう。
迷った分だけたくさんの可能性を、必ず産み出せるから!

私たちはまだ戦える!まだまだ挑戦していける!
一緒に頑張りましょう♪


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